修行が終わって、自宅へ帰る前に人馬宮へ寄るようになってから、もう半年にもなるな。
私の家は、元々聖域にあるので、人馬宮の居住区域を使用する必要もないのだが、天候の変化によって起きた偶然が運命を引き寄せた。
あの日は、修行の後に雨が降ってきたために、自宅よりも近い人馬宮の居住区域で汗を流した後、私は、彼女に出会ったのである。
アテナの従姉で、この聖域の文官として、シオン様の補佐をしている儚げな雰囲気の女性だった。
女官として働いているアテナのもう一人の従姉と違い、最初の挨拶以来、殆んど接する事のなかった彼女と、偶然出会ったのはこの時が初めてで、ぎこちなく挨拶を交わしたのを覚えている。
の華が咲くような美しい笑顔が印象的で、今考えても私らしくない強張った挨拶に後悔が残る。
しかし、あの時私は、アテナの御前にいるよりも緊張していたのだ。
大きな声で挨拶すれば が驚いて、丁重に、扱わなければ壊れてしまうと本気で思っていたのだ。
思いの外、大らかで、少々の事では動じないツワモノだと判るのに時間はかからなかったが、最初の印象というものは変えようもない。
あの日から、 の綺麗な笑顔が忘れられなくて、私は、自分が守護する人馬宮に良く足を向けるようになった。
毎日会えるわけではなかったが、ぎこちない挨拶が、自然になり、笑みを交わし、少し言葉を交わせるようになる頃には、私は自分自身の恋心を認識出来るようになっていたのだ。
振り返ってみれば、初めてアテナによって紹介された時に、一目惚れしていたのかもしれないと思う事もある。
最初に出会った時の、脳裏に残る の雰囲気とその姿は、今でも心に切なくて、何処か甘いものだ。
その思いを言葉にして、 に伝える事は、当分ないだろうと悠長に構えていたのも今では懐かしい思い出だ。
あの時は、もっと話をして、 が私という人間を理解して、私も の事を多くを知って、それからでも遅くないと思っていたのだ。
後になり、その悠長な考えも問題なかったと判ったのだが、気が急(せ)ぐと、焦りも酷くなる。
例えば、 が他の黄金聖闘士と親しい以上に懇意に見えたり、私といる時よりも嬉しそうに微笑んでみえる時がそれであった。
だから、仕方がないのだと思うと、この心にある仄かな思いを、知らぬ間に膨れ上がった思いを告げてしまえと思うのだ。
日々積み重なるその思いは、胸に響き、刺すような痛みを強くする。
そして、私は、何時ものように挨拶をして通り過ぎて行く の腕を、無意識に掴んでいた。
不思議そうに見つめてくる瞳が、透明過ぎて、私の心拍を否応なしにも上げさせた。
何を言って良いのか判らなくなって、自分自身に憤りと情けなさを感じながら、心の奥が締まるように痛くなる。
時間をかけて出た言葉は、擦れるように強張って、短く響いた。
声を出してみると楽になるかと思ったが、ますます頭は混乱し、この次に何を言えば良いのかも判らない。
気持ちを告げて、 の反応を見て、瞳を丸くしているのが判った瞬間、心臓に細い針が突き抜けた気がした。
だから、 の心を煩わせたくないと思った私は、何時もにもまして気の利いた言葉が脳裏に回る。
すまない。気にしないでくれ。と、浮かんだ言葉は繰り返し心を反響し、口に出そうとした瞬間、 が微笑んだ。
何時も見る花のような笑顔は、大輪の花が咲いたように艶やかで、私は言葉を失った。
耳に届いた言葉さえ、幻のように聞こえて、思わず瞳を見開いた。
夢ならどうか覚めないでくれ、そう、思ったのも覚えている。
呆然自失の体(てい)の私の目の前で、手を何度も振る の姿が可愛らしかった。
「・・・・・・・・・私の恋人になってくれないだろうか?」
いまだ夢見心地を過ぎぬ私の心は、思い合うだけでは足りない、と、願いを音という形にする。
絞り出した声は、最初よりはっきりしていて私自身、驚いた。
この時も、 の返事は一瞬後にあったらしいが、私は長い時を感じたのを覚えている。
謙虚に響く の返事の途中で私は破顔した。嬉しくて、 を高々と抱き上げる。
驚く をよそに、その高さで の腰を強く抱きしめた。
それこそ、アイオリアの守護星座ではないが、雄叫びを上げたいほどだった。
にっこりと微笑んで、私の頭を抱きしめてくれたのだ。
そう、突然の告白だったと自分自身でも思うが、二人で過ごす特別な日になるはずだった今日は、思い返して、あの時の感動と、今ある幸福をかみ締め、少し、やるせない気分になる。
何故、今日この日、聖域に黄金聖闘士が私しかいないのか?など、考えても詮無(せんな)い事なのだろう。
一緒にクリスマスイブを過ごすと決めていたというのに、前日になって急の任務を告げた私を は笑顔で見送ってくれた。
そんな優しい笑顔をくれた のために、不埒な同胞を早々に片付け、聖域に帰還するのだと心に誓う。
隠密的にと何時もの如く言われたが、多少の器物破損は許されるだろう。
そう、君の元に早く帰るために、私は私の出来うる限りの事をする。
だから、その優しい心を痛めずに、待っていて欲しい。
「どうか、されましたか?・・・頂いた決裁事項に誤りはありませんでしたが・・・?」
は、シオンが自分に対して謝らなければならない事が、何かあっただろうかと考える。
今まで処理をしてきた仕事を思い巡らしているのが判るからである。
困ったように呟けば、 は瞳を丸くして、暫くしてから微笑んだ。
の予想外の言葉に、今度はシオンが頭を傾げる番であった。
「イベント事は好きですが、私は、その日に必ずと思うほど熱狂的でも、多感的(センチメンタル)でもありません。その日を大切にしようとしてくれる心を頂けた事で、もう、充分なのですが・・・。あの任務もアイオロス以外に適性人員がいなかったのは、私も判っているのですから、シオンが気になさる事はありません」
はそんなシオンを目に留めながら、今日の少ない仕事に合点が行く。
何故か、今日は教皇の間の入口に瞳が多く向ってしまうのだ。
アイオロスのその言葉が胸の奥に、宝物のように輝いている。
は、その言葉が、守られる事がないとは、思っていない。
けれど、大変な任務である事は判っているから、守られなくても、その言葉だけで嬉しかったのだ。
アイオロスの言葉が守られない可能性を考えながら、真実になる事を信じている。否、真実になる事を願っているのだ。
期待という思いに は苦笑して、手元にある書類に瞳を落とす。
この瞳が、再び教皇の間の扉を見つめるまでの短い時間に、処理すべき事は多くあるのだ。
二十代にもなって、お伽話(メルヘン)チックな発想だけれど、聖域の英雄は、そういう風に見えていた。
太陽のような笑みは、仲間に向けられ、時に稲妻のような怒気さえも、愛が見え隠れする。
王子様より、やはり、英雄(ヒーロー)という言葉が似合うその気質。
仕事柄、最初の挨拶以外に、会うこともなかったけれど、遠くにその姿がある時、長く見つめてしまう癖がついた。
今まで恋の経験がないわけでもない私にとって、それは意外な恋の始まりで、くすぐったさが淡い恋心の、いわゆる初恋と呼ばれるモノに似ているのを感じたものだ。
だから、私にとってアイオロスは、王子様なのだろう。
そう、アイオロスが私に告白してくれたあの日から、私のアイオロスに対する淡い恋は、愛に変わっていった。
見つめるだけでは知り得なかった多くのモノを私は知るようになる。
少し、慌て者のところがあるのも、大雑把なところがあるのも。そして、その心根は愛で満ちていて、真っ直ぐで、好きという感情がますます深くなるだけだった。
そして、アイオロスがたまに、私を壊れ物のように、扱うのが心に深く響いた。
普段は同等に扱ってくれるのに、時折見られるその行動が、私に嬉しさをもたらす。
自分自身で大地に立って生きて行く術を知っている私にとって、毎日ならうんざりするその行為も、時と場合によっては心に残り、忘れられない感覚になる。
それを計算せずに、素のままにしてしまうアイオロスに、私は今でも変わらずに惹かれていた。
アイオロスが私に告白してくれた時の言葉が脳裏に木霊する。
「・・・・・・・・・私の恋人になってくれないだろうか?」
優しい記憶が刺激されて、私の心はあの日へ少し旅をする。
アイオロスがこんなに優しい言葉を残すから、特別な毎日の始まりとなった日を思い出す。
今日は、クリスマスイブ、恋人達の特別の日かもしれない。
けれど、私にとって特別な日となったのは、アイオロスが素敵な言葉を残してくれたから。
私の王子様は、優しくて熱いから、きっとこの言葉を守るために四苦八苦しているに違いない。
でも、そう、その言葉を信じて、今日はこの教皇の間で、今日が明日になる時間まで待ってみよう。
そう、貴方は、きっと任務の報告をするために、ここに誰もいなくても、必ず最初にこの場所に来るでしょう?
貴方の言葉を信じて待ってみるけれど、無理はしないで下さいね。
今日は、日付の変わる時間まで、教皇の間にいさせて欲しいと、シオンに頼み、了承を得た は、教皇の間で独り、日々、減る事のない書類の束に目を通していた。
少しでも、教皇であるシオンの雑多な仕事が減るようにするのが の勤めである。
書類に目を通しながら、それを見ているだけで、理解していない自分自身の状態に、 は瞳をきつく瞑った。
刻一刻と過ぎる時間に、転(うた)たつのる思いは、帰って来れないだろうという心と、まだ時間はあるのだからと思う心でせめぎ合う。
今まで、待っていただけに、驚きも深かったのかもしれない。
思わず立ち上がって扉の方を見れば、アイオロスの姿があった。
何時、扉が開けられたのか、満面の笑みを浮かべたアイオロスがそこにある。
何度見つめても開く気配さえなかったというのに、目をはなした隙に、コレである。
は、嬉しさと可笑しさを笑みに、微かに乗せて、ゆっくりとアイオロスの側に歩いて行った。
呟くと同時に、駆け寄ってきたアイオロスに、抱きしめられ、聖衣から、外気の冷たさと、腕からは彼の暖かさが伝わった。
優しく力強い声に、 は笑みを浮かべてアイオロスを見上げた。
アイオロスの柔らかな髪の毛に、冷たい水の雫があった。
そう言うと、アイオロスは、 の手を引き、外へ連れ出そうとして、突然立ち止まる。
が頭を傾げると、アイオロスは笑みを浮かべて、抱き上げた。
こんなふうに、宝物のように扱われるとどうすればよいか判らなくなる。
それに、仄かに暖かくなる心の奥の感情を思いのままにのせるには、少し気恥ずかしく感じる。
アイオロスに連れられて出た外は、昼間の寒さだけを感じる鉛色の空はなかった。
変わりに、冷気に包まれた世界は、闇の色を纏い、はらはらと雪が降り始めている。
約束を、守ってくれたアイオロスの優しさと強さに、新たな想いが積もる。
アイオロスは微笑んで、抱き上げた の額に己の額をつけた。
多くを望まない に、アイオロスは切なさと愛しさが積もる。
少し、子どもの頃にかえるような、そんな瞳で は、アイオロスを見つめる。
嬉しそうに、けれど目を丸くしたアイオロスに、 は頷いて、その首に抱きついた。
「そう、わたしだけの王子様・・・。少し、子どもに戻ったわたしに、付き合ってね」
の小さな声に、アイオロスは恥じらいを感じ取って、意を決した。
自分も、子どもにかえって、真っ直ぐに言ってみようと思ったのである。
「それなら、 は・・・・・・私の愛しい、そして美しいお姫様だよ」
そして、アイオロスの耳は夜目にも明らかなほど真っ赤である。
は、アイオロスが合わせてくれた事が嬉しくて、その言葉に愛しさを感じ取って、微笑んだ。
どちらが先に囁いた言葉なのか、教皇の間の近くで小さく木霊する。
そして、見つめ合った瞳が、同時にふせられ、二人の唇が重なり合った。
それは愛で包まれた恋人達への贈り物かのように、美しかった。